第10話
口ずさんだ人々がいたことを。
フランクフルトから、約1時間半。
高速鉄道を降りたのは、アーヘンという小さな駅だった。スーツケースを構内のコインロッカーに入れ、Googleマップで現在地を確認しながら石畳を歩いていく。スニーカーで良かったと心底思う。ヨーロッパの女性たちは、この凸凹をどうやってハイヒールで歩くのだろうか。
約束の12時までだいぶ時間がある。途中でお茶でもしようと思っていたが、何となくしそびれて、大聖堂の前に到着した。腕時計は、11時20分過ぎを示していた。
汗ばんだシャツに新鮮な空気を入れて、とりあえず中に入って待つことにした。
アーヘン大聖堂は、786年にカール大帝によって建築が始まったとされている。
日本でいえば奈良時代。奈良で大仏が作られていた頃、ローマ帝国はこの聖堂を作っていたと思うと、本当に別世界だと感じる。
さして大きくもない外観からは、なぜこれが初代の世界遺産なのか不思議。
〝大聖堂〟なんて、ちょっと大袈裟なくらいだ。だけど中に入った瞬間、吸い込んだ息を吐くのさえ忘れた。
天井から床まで、見渡す限りが宝石なのだ。
アーヘンで待ち合わせよう。
姉からのメールで、それが街の名前であることを知った。
気づけば姉と会うのは、6年ぶりだった。
4つの歳の差のせいか、姉が優等生だったせいか、彼女が単身ベルギーに渡ってからは、滅多に連絡も取っていない。
「彩子の方が早かったね」
外国語に混じった日本語に振り返ると、最後に見たときと何も変わらない姉の姿があった。
癖っ毛を無造作に束ねて、学生のように見える。
妹は彩子で、姉は明子。
美術好きの両親がいかにも選びそうな名前である。
とりあえずランチでもしようよと、大聖堂の裏手にあるカフェを姉は選んだ。
「遠かったでしょ」
昼間から白ワインをボトルで頼むなんて、姉は意外と大胆なのかもしれない。店員さんはさして驚く素振りも見せず、それぞれのグラスになみなみと注いでくれた。
「日本からは遠かったけど、フランクフルトからはそんなでもなかった」
その答えに姉は吹き出し、
「彩子は変なところ真面目だよねぇ」
と言った。
姉は卒業間近だった芸大を退学し、絵画修復士になると突然家を出て、そのまま戻って来なかった。
その頃わたしは高校生で、親の期待もあったし、現役は無理でもどこかの美大に進もうと当たり前のように思っていた。そして今はイラストレーターとして、絶賛売り出し中だ。
久々の再会に、わたしは戸惑っていた。
「おばあちゃんの三回忌、この前やったよ」
姉に話したいことはこんなことじゃない。そう思いながら、余計なことばかりが口をつく。
小さな沈黙の先に、
「おばあちゃんがいたから、わたしは生きれたなぁ」
と姉がポツリと言った。
「ベルギーに来るお金出してくれたの、実はおばあちゃんなんだよね」
周りの評価とは裏腹に、わたし、絵を描くのが苦痛でしかなくてさ。親にはまったく理解されなかったけど。毎月おばあちゃんに借りたお金を返済していて、それがまだ半分ぐらいなのにおばあちゃんは亡くなって。
初めて聞くことばかりだったが、姉の淡々とした話し方で、彼女にとっては過去だということがわかった。
残り少なくなったワインを注ぎながら、
「彩子は今どんな感じ?」
と、話を向けてきた。
変わらない顔色と口調に、姉はお酒が強いのかもと思う。
わざわざ会いに来た妹が、何かに行き詰まっていることなど、とっくに察しているのだろう。
「ちょっとほろ酔いな感じ」
とだけ答える。
「じゃあ、大聖堂戻って散歩でもしますか」
姉は慣れた手振りで、チェックをお願いした。
アーヘン大聖堂の天井は、何色ものブルーチップと、金色で植物の蔓や花のモザイクで埋め尽くされている。アーチの柱は滑らかな大理石がシンメトリーに配置されている。
カール大帝は建設から28年目で逝去し、ここに埋葬された。それからも職人たちの手は止まることなく、千年以上の時を経て現在の姿になったという。神聖ローマ帝国の成り立ちとして、イスラムや、南ヨーロッパ、フランス、あらゆる地域の文化が入り混じるような荘厳さがある。
姉はこの人類の至宝を妹に見せたかったのだろうか。
「良くこんなの作ったよね」
今や王立美術館でクーリエをしている人の言葉とは思えない。
「戦争で一部が破壊されてさ、その修復したとこが、いつもみつけられなくて」
天井画を描くミケランジェロのように、首を直角に折りながら姉はつぶやく。
どこを直したかわからない。
誰が直したかわからない。
修復士にとっては、筆が見えないことがプロフェッショナルの仕事なのだ。
「明ちゃんは、絵が好きじゃなくなったの?」
なんだか聞かずにはいられなかった。
「ずっと好きだよ」
天井から目を戻して、わたしを真っ直ぐに見て姉は言った。
「自分の描く絵より、好きな絵がたくさんあっただけ」
絵をそのままに残したい。酸化して変色した部分を丁寧に取り去る。わたしの表現なんていらない。だけど感性がないとできない。自分が描いてきたすべては無駄じゃない。
「すっごい集中しちゃうとさ、無意識で口ずさんじゃう歌があってさ」
姉もひとり、思い悩みながら、自分の道をみつけてきたのだ。
「わたし、もっと絵が描けるようになりたいんだよね」
と、ようやく言えたら、彩子が描けたらいつでも修復してあげると姉は笑った。
ちなみに姉が口ずさんでしまう歌は、「おどるポンポコリン」らしい。
アーヘン大聖堂を作ってきた人々も、きっと小さな声で、心の中で、歌を口ずさんでいたはずだ。苦労だけじゃなかったはずだ。
姉はその大合唱を、わたしに聞かせたかったんだとわかった。
Written by Mariko Ogata

尾形真理子
クリエイティブディレクター/
コピーライター
おもな仕事に、LUMINE、資生堂、キリンビール、東京海上日動あんしん生命、日産自動車、
Tiffany&Co.など。
東京コピーライターズクラブ会員。
TCC賞、朝日広告賞グランプリ他受賞多数。『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』(幻冬舎)で、小説デビュー。
蜷川実花
写真家、映画監督
木村伊兵衛写真賞ほか数々受賞。
2/27より世界190ヶ国で配信されるNetflixオリジナルシリーズ『FOLLOWERS』監督。映像作品も多く手がける。個展 「蜷川実花展-虚構と現実の間に-」が全国の美術館を巡回中。2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事。
関谷奈々
アートディレクター
ルミネ シーズンビジュアルの アートディレクターを2014年から手がける。他にNEWoManのロゴ開発、KOSE、サントリー、LAWSONなど、グラフィックからパッケージのデザイン、ロゴ開発まで幅広く手がける。
美佳
モデル
2001年8月30日生まれ。日本とフランスのハーフ。フランス生まれ。2019年7月から本格的にモデル活動を始めて、わずか2ヶ月という短期間で、ミラノコレクション・パリコレクションでランウェイデビューを果たし、「CHANEL」「LOUIS VUITTON」など計10ブランドのランウェイを歩いた。
今後は東京を拠点とし、海外で幅広く活動する。
Special Short Story
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