
「来週金曜の午後、あけておいてね」
娘からの突然の指令に、一瞬胸が跳ねた。
事務のパートがない週4日は、どうせ自由の身だ。
仕事で家を空けがちな夫と、大学生活に忙しい娘。
最近は台所に立つことが億劫で、一人の晩ごはんはレトルト食品で済ませることが増えた。
カフェにでも行って、なにか大仰なお願いをされるのだろうか。
何か欲しいものがあるならバイトでなんとかしなさい、というセリフを心に決めて娘と家を出る。
ところが近所のカフェを通り過ぎ、娘はルミネ立川の方に足を進めていく。
半歩先をしゃきしゃき歩く彼女は随分髪が伸びていて、いつのまにか美容院に連れて行く役目を終えていたことを思い出す。
「ここ、入ろう」
彼女が指差した先は、なんとネイルサロンだった。
7階まで上がった先があまりにも意外な場所で、私は思わず立ちすくむ。
娘は軽く私の肩を押すようにして、中に促した。
未踏の地、ネイルサロン。
客層は意外にも幅広く、向こうの席では60代と思しき御婦人がまるで儀式のように足のケアを受けていた。
あれは噂に聞いていたフットネイルだ。貴族の嗜みと呼ぶほかない。
娘は隣の席に座り、慣れた口調で店員さんとコミュニケーションを取り始める。
パラジェルだのラメグラだの呪文を繰り出す様子は、なんだか違う惑星の住民みたいで変に頼もしい。
「お母さんはいいわ。あなただけやりなさいよ。どこかカフェに入って待ってるから」
「なーに言ってんの、私がお母さんにプレゼントするの」
娘に押し戻されるように椅子に腰を下ろした私は、気後れしながら指先に目を落とした。
ガサガサした手の甲、鋭く突き出たささくれ、薄くなり二重に割れた爪。
担当してくれる若いネイリストさんは柔らかい笑顔で言った。
「お手入れするの楽しみですね。綺麗になりますよ」
ネイルのパレットを見せられたが、何がなんだかわからない。
自分の爪に当ててみるも、やはり指のシワや爪の傷みが気になって選ぶどころではない。
「お母さんピンク好きだよね?マグネットネイルとかいいかも。すっごいきらきらすんの」
娘に任せると、あれよこれよとネイルのデザインが決められていき、私は堪忍して爪を差し出した。どうか派手になり過ぎませんようにと密かに願いながら。
まず歯医者のドリルを百倍優しくしたような器具で、甘皮の処理をされる。
身構えたが、驚くほど優しい感覚に心地よささえ覚えた。
「いつもプロにやってもらってるの?」
「サロンは二回目。いつもはセルフでマニキュア塗ってる」
娘はさらりと答える。
二回目にしてあんな呪文が出てくるなんて、たいしたものだ。
いつの間にか爪の凸凹も消え失せ、滑らかな生爪が現れた。手入れなど忘れた自分の指が、少しずつ違うものへと変わっていく。
これがプロの技術か……と感心しながら、ふと娘の顔をじっくり見る。
バイト先の塾で、生徒がノートに描いた落書きがあまりに秀逸で叱るに叱れなかった話。
親友が一年の交換留学に旅立ち、寂しくて仕方ない話。
ゼミの選択に悩みながら、就活を意識し始めた話。
久しぶりに腰を据えて娘と会話を交わした。
その横顔は成長した「お姉さん」のはずなのに、ふとした瞬間に昔の面影がちらりと差し込む。
その度に、彼女のなかで息づく時間の気配に触れた気がして、心の奥に穏やかなさざ波が立つのを感じた。
爪に目を戻すと、ネイリストさんが米粒ほどの鉄の小槌をくるくると回しているのが見えた。
おまじないでもかけているのかと尋ねると、娘はお腹を震わせながら笑い、息を整えながら種明かしをするように続けた。
「これ磁石だよ。ネイルの模様を作ってるの」
小さな小さな磁石が繰り出す技は、魔法だった。
マニキュアの中に潜む鉄の粉が、磁力に引き寄せられ、流れるように模様を描いていく。光の粒が爪の上に吸い寄せられ、瞬くたびに爪がしっとりとした光沢を帯びる。
自分の爪先に無数の光が集まり、渦を描き、静かに留まる不思議。
爪の上で生まれた小さな宇宙に、私はただ見入るばかりだった。
帰り道、娘はツルツルになった私の爪をなぞりながら得意げに言った。
「何度も見ちゃうでしょ」
ジェルでかためたネイルは、マニキュアと違って炊事をしてもキーボードを打っても剥げないらしい。
指先の光が、自分の生活と馴染むなんて。
その繊細さと頑丈さの同居に奇妙な安心感を覚える。
「私からのバレンタインだよ」
不意の言葉に胸が熱くなる。
ありがとう、と言いかけると娘が間髪を入れず声を被せた。
「ホワイトデー、期待してまーす!」
ジェラシーくるみ
jealousy kurumi
東大卒の夜遊びコラムニストでお昼はしがない会社員。年中無休でモヤモヤしてるアラサー女子たちへ向けた文章が特徴。 書籍やnote、脚本など様々な場面で活躍中。
▼他のストーリーはこちらから
STORY 1 「for me」
STORY 2 「変わるふたり、変わらない甘さ」
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